平安時代初期の弘仁9(818)年、記録に残る関東最古の大地震が起きました。
マグニチュード(M)は推定で7.5以上。
学問の神様、菅原道真が残した歴史書「類聚国史」に、すさまじい被害の
様子が記されているそうです。
〈山が崩れ数里の谷が埋まり、数え切れないほどの人々が圧死した。
上野国(こうずけのくに)などの境では地震で潦(にわたずみ)ができた〉
「潦」は水たまりのこと。上野国は内陸の群馬県なので津波ではありません。
激しい揺れで地盤が液状化し、地下の水と砂が地表に噴き出す「噴砂」が起きたようです。
被害は武蔵(東京都・埼玉県ほか)、相模(神奈川県)など関東諸国に及んだようですが、
震源地は分かっていません。
この謎の“首都直下地震”を裏付ける痕跡が2年前、初めて発見されました。
群馬県境に近い埼玉県深谷市の皿沼西遺跡。
住居の床などが噴砂で切り裂かれ、いたるところで壊れているのが見つかりました。
倒壊した倉庫跡では、柱を立てた穴の中から土器が見つかり、
その様式から9世紀第1四半期の集落と判明。
発掘した県埋蔵文化財調査事業団は、類聚国史との対比から
818年の地震被害と結論付けました。
地震の翌月、嵯峨天皇は被災地に使者を派遣し、身分を問わず免税や
家屋修復などの救済を行うよう命じました。震災復興の先駆けです。
遺跡には建物や用水路を再建した跡もあります。
しかし、復興への道のりは険しかったようです。被災地は16年が過ぎても
「荒廃田」が広がっていたと、伝えています。
住居数が回復する本格復興には30年以上かかったようです。
9世紀の関東では元慶2(878)年にもM7級の大地震が起きました。
「日本三代実録」によると相模、武蔵の被害が甚大で、建物はすべて壊れ、
多くの人々が圧死してしまいました。相模国分寺では仏像が破損し、
同国分尼寺は崩壊したといいます。この地震もメカニズムなどの実態は不明。
東京周辺の地下には低頻度で動く活断層が結構あります。
これらの活動は海溝型巨大地震にコントロールされている可能性があり、
過去の癖を見破れば予測の精度向上に希望が持てる可能性があるとの事です。
「貞観の再来」とも呼ばれる東日本大震災に続き、首都直下への懸念が強まっている
今日の日本ですが、過去の教訓から得られるものも多くあるのではないでしょうか。